学生が就職以外の進路を選択する際に知っておきたい予備知識を、ゲスト講師に“7つの質問”を投げかけ学ぶ課外講座。ビジネスパーソン向けにデザインやアートを教えるスクールを運営している稲葉裕美さんをゲストに迎えました。ムサビを卒業後、一般企業への就職を経て、2014年に株式会社OFFICE HALOを起業した稲葉さんに、美大で得た経験のビジネスへの活かし方や、会社経営について考えていることをお聞きしました。

●ゲスト講師 稲葉裕美(デザイン教育家/OFFICE HALO代表取締役/WEデザインスクール・WEアートスクール主宰)
●聞き手 酒井博基(株式会社ディーランド代表取締役)

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質問3 この方向でやっていけそうだと手応えを感じた瞬間はいつですか?

(酒井)3つ目の質問です。稲葉さんがビジネスを始めてから、この方向でやっていけそうだなという手応えを感じた瞬間はいつでしたか?

(稲葉)2016年に「WEデザインスクール」の受講者の募集を始めたときでしょうか。募集開始の前に開講を告知するプレスリリースを配信し、いろいろなメディアに取り上げていただきました。そして実際に募集を開始すると、尋常じゃない数の申込があったんです。第1回目の時点で定員を大幅に上回る申込みがあり、せっかくの申込みをお断りしなければならないほどでした。そのときにはっきりとした手応えを感じましたね。

(酒井)プレスリリースは誰でも出すことができる情報発信ツールですが、とはいえ、メディアに掲載してもらうのは簡単ではありません。確実にメディアに掲載されたいなら広告枠を買うこともできますが、その情報が読者や視聴者にとって価値があると判断されれば、無料で紹介してもらえます。WEデザインスクールのコンセプトが時代のニーズに合っていることに、プレスリリースを読んだメディアが気づいたんですね。実際にスクールを運営していくうちに、手応えは確信に変わっていったのでしょうか。

(稲葉)そうですね。トントン拍子でいろんなことが動いていきました。ただ、この成功は偶然ではないと思っています。実は、WEデザインスクールを開講する前段階で、ちょっと違ったコンセプトのアートスクール事業を始めていたんです。それはビジネスパーソン向けのスクールではなく、もう少し趣味的な位置づけでした。そのときに得られた知見を踏まえて内容やターゲットを調整していった結果がWEデザインスクールなんです。

(酒井)なるほど。世の中で支持されているビジネスやサービスって、最初からピンポイントに狙えていたようなイメージを持ちやすいですが、実はそんなことはないんですよね。時代の気分とのチューニングをしていく作業は、経営者にとって苦しいものだと思います。

質問4 「ロマンとソロバン」どのようにバランスをとっていますか?

(酒井)デザインスクールの受講希望者が殺到して「これはいける」と思えてからも、会社を経営していくなかではさまざまな苦労があったと思います。そこで質問です。渋沢栄一の「論語と算盤」をもじった、「ロマンとソロバン」という言葉があります。「ロマン=自分が成し遂げたいこと」と「ソロバン=ビジネス、金勘定」の間で、どうバランスを取って経営していくのか。ロマンを追いかけすぎるとお金が稼げないけれど、ソロバンを優先していると気持ちが離れてしまいますね。稲葉さんはこのバランスについてどうお考えですか?

(稲葉)すごく難しいポイントですね。先ほども話したように、WEデザインスクールを2016年に始める前に開講していたアートスクールは、一般向けの企画でした。そのときも受講者はたくさん集まりましたし、企画自体は成功だったと思います。ただ、同じような講座はカルチャーセンターなどでも開講しているため、それらの競合と価格帯をそろえないとお客さんが来てくれません。かといって安い金額しか付けられないと、ビジネスとして大きくならない。これは「ソロバン」の問題ですね。
さらに「ロマン」の部分でも引っかかりがありました。最初の講座に集まってくれたのは、自分が本当にアートを伝えたかった初心者ではなく、普段から美術館に足を運んでいるような中級者が多かったんです。もともとアートが好きな人に届けるのではなく、アートにアクセスしたことのないような初学者に届けたいという自分の「ロマン」とも一致していませんでした。

WEデザインスクールではビジネスパーソンを明確なターゲットにしたことで、私が本当にデザインやアートを届けたいと思っていた方たちに受講してもらえています。しかもこのコンセプトにしたことで、従業員への福利厚生として企業が受講料を負担してくれるようになりました。個人の財布ではなく会社の経費で支払ってもらえると、料金が高くても人が集まります。ロマンとソロバンのどちらも得られるようになったのかなと思います。

(酒井)とてもおもしろいですね。趣味の領域をターゲットにすると相場価格が低いけれど、ビジネス向けにすれば会社の経費を使ってもらえるから料金を上げられる。このことに気づいたきっかけは、なんだったのですか?

(稲葉)実はこのとき、グロービス経営大学院に通っていました。経営学について一度学んでみようと考えたんです。そこでは、いわゆる一流企業に勤めているようなビジネスパーソンの同級生と知り合いになり、リアルな需要をいろいろと聞きました。ビジネスパーソンたちがどういうことを知りたがっているのか、どういうことに困っているのか、生の情報にたくさん触れることができたんです。デザインスクールのニーズがあると気づけたのは、グロービスで出会った人たちのおかげです。

(酒井)納得しました。周りにビジネスパーソンしかいないような、普段とはまったく違う環境にあえて飛び込んだことで、ニーズに気づくことができたんですね。環境を変えてみるのって、なにが起こるかわからなくておもしろいですね。

質問5 ビジョンが揺らぐことってありますか?

(酒井)5つ目の質問です。経営していてビジョンが揺らぐことやブレると感じることはありますか?

(稲葉)ビジョンが揺らぐというか、不安に感じることはあります。事業は順調なんですが、本当にこのまま続けていけるんだろうかという不安はずっと抱えています。自分がうまくできたとしても、世の中の状況は変わる可能性がある。コロナ禍のような天変地異もありますし、競合がたくさん現れるかもしれないし、クリエイティブ教育がいまよりも浸透して私たちの優位性がなくなるかもしれない。なにが起こるかはわかりません。でも、それが正しいと思うんですよね。

不安があるからこそ、世の中をよく観察して新しいビジネスのタネを探すことができます。不安になったりビジョンが揺らいだりすることをネガティブに捉えるのではなく、世の中を見る視点の鋭敏さを磨いていると捉えればいいのだと思います。

十分に準備をしておくことで、不安感は消すことができるのではないでしょうか。想定する変化に対して、もしそれが起きたら自分はどうするのかを考え、書き出しておくことが大事です。いまのビジョンで事業をするのが難しくなったらなにをするのか、常に想定しながら動いていくことで、不安を安心に変えていくように意識しています。

(酒井)事業が成功していても常に不安があるというのは、起業家の宿命なのかもしれません。でも、その不安に押しつぶされるのではなく、準備を重ねていくことで安心に変えていくということですね。

(稲葉)不安というよりも、危機管理能力として自分では捉えている気がします。

質問6 10年後、20年後のことを考えていますか?

(酒井)続いて、いまのお話にもつながる質問です。変化の激しい時代、会社経営は本当に大変だと思います。10年後、20年後といった長期的なことは考えていますか?

(稲葉)考えていますね。死ぬまで考え続けますし、自分が死んだあとのプランも考えています。想定内と想定外という言葉がありますが、どれだけ多くのことを想定内にしておけるかが大事ですよね。先ほど話した「不安を解消するための準備」もそうですし、「10年後にはこういう仕事をしていたい」などの想定をしておくことで、現時点での選択も変わってくるんじゃないでしょうか。

80歳になったときに世の中からどういう人だと思われたいか。何歳のときに、どんなキャリアを築いていたいのか。そんなふうに未来のイメージを持つことを大切にしていますし、会社のメンバーとも話し合ってイメージを共有しています。

(酒井)そうはいっても、不安になったり弱気になったりすることはあると思います。そういうときの対策はありますか?

(稲葉)ベタなんですが、運動です。身体が健康だと心も健康になるし、身体が不健康だと心も不健康になってしまう。私は毎朝1時間運動してから一日をスタートさせています。心身の健康をちゃんと整えることは、私にとって一番大事な仕事ですね。

(酒井)やっぱり、身体が資本ですからね。クリエイティブ業界にいると健康をないがしろにしがちな風潮もありますが、経営者の方は特に、健康への投資を重視している印象があります。

質問7 自分にとっての「成功」のモノサシはなんですか?

(酒井)最後の質問です。なにをもって「成功」したと見なすのかは人によって価値観が違うかと思いますが、稲葉さんの経営における「成功」のモノサシやバロメーターは、どんなものでしょうか。

(稲葉)ひとつ目は、「自分のやりたいことができているか」です。世の中のニーズをくみ取っているうちに、自分のやりたいことと違った仕事をしている状態になる可能性もあります。本当に自分がやりたいことをやれているのか、いつも確認しています。

ふたつ目は、「社会に求められているか」。その商品やサービスをほしいと言ってくれる人たちがいる状況かどうかということです。
もうひとつ、「儲かっているか」も大切です。一緒にやってくれている人たちに給料をちゃんと支払えているか、継続的な売上予測が立てられているか。これらの要素がそろっているときは、経営がうまくいっている状態といえるのかなと思います。

(酒井)稲葉さんのお話を聞いてきて、確固たる理念を持たれているなと強く感じました。ご自身の理念がしっかり言語化されていて、従業員の方などにもよく話されているんだろうなという印象を受けます。

(稲葉)そうですね。私は本当にメンバーに恵まれていて、自分の苦手なところを補ってくれる人と一緒に働けていると思います。メンバーは学生時代からの知り合いですが、当時すごく仲が良かったというわけではないんです。友達として気が合うというより、仕事上のパートナーとして相性がいいメンバーが多い。それは、同じムサビの芸文で育ったことで、ビジョンを共有しやすかったからなのかなと思っています。いい仲間に出会うことができました。


<講師プロフィール>
稲葉裕美/デザイン教育家、OFFICE HALO代表取締役、WEデザインスクール・WEアートスクール主宰

2014年に「クリエイティブ教育をイノベーションする」というビジョンのもと、OFFICE HALOを設立。2016年に日本初のデザイン経営の学校「WEデザインスクール」を開校。企業や行政、経営大学院などで多数プログラムを開催し、これまで1万人を超える受講者を輩出。2024年にアート思考の学校「WEアートスクール」を開校。著書に『美大式ビジネスパーソンのデザイン入門』(2024年5月発売)がある。