学生が就職以外の進路を選択する際に知っておきたい予備知識を、ゲスト講師に“7つの質問”を投げかけ学ぶ課外講座。ビジネスパーソン向けにデザインやアートを教えるスクールを運営している稲葉裕美さんをゲストに迎えました。ムサビを卒業後、一般企業への就職を経て、2014年に株式会社OFFICE HALOを設立した稲葉さんに、美大で得た経験のビジネスへの活かし方や、会社経営について考えていることをお聞きしました。
●ゲスト講師 稲葉裕美(デザイン教育家/OFFICE HALO代表取締役/WEデザインスクール・WEアートスクール主宰)
●聞き手 酒井博基(株式会社ディーランド代表取締役)
社会人にデザインを教えることで、芸術文化と社会をつなぐ
酒井博基(以下、「酒井」)今回は「描いたビジョンを実現させる会社を経営するには?」というタイトルで、起業家としての稲葉さんのお話を聞いていきたいと思います。まずは、稲葉さんが経営する株式会社OFFICE HALOがどのような事業をしているのかを教えてください。
稲葉裕美さん(以下、「稲葉」)ビジネスパーソンがデザイン経営を学べる「WEデザインスクール」を、2016年からムサビと共同で運営しています。2024年には、ビジネスパーソンのためのアートの学校「WEアートスクール」をスタートさせました。私自身も講師として同スクールで教えています。そのほか、グロービス経営大学院や国立情報学研究所の提供する社会人向けプログラムなどでも講座を担当しています。
私がスクールで教えている内容は、美大で学んでいるみなさんにとっては基本的なことかもしれません。ですが、世の中のほとんどのビジネスパーソンはデザイン経験がまったくない方が大半です。そういう方たちも、たとえば新商品の開発などに携わると、デザインの発注をしたりデザイナーから届いたデザイン案の良し悪しを判断したりといった場面が出てきます。どんな視覚情報が商品の魅力を伝えるのかを学ぶことや、観察力や判断力を磨いていくことは、ビジネスパーソンにとって価値が高いんですね。
美大生とビジネスパーソンは、真逆といえるくらいに違います。美大生のみなさんが当たり前にできることはビジネスパーソンにとっては苦手分野ですし、そもそもアートやデザインを学ぶ目的が違っていますね。作品制作や表現をしたいのではなく、会社でチームをまとめて商品開発や販売企画をするためのスキルを求めています。ですから、美大で教えられているようなカリキュラムではなく、受講者の関心や知識に合わせた独自のデザイン教育を設計して指導しています。
今年の5月には『美大式 ビジネスパーソンのデザイン入門』という書籍を出版しました。アートスクールなどでたくさんの方にデザインを教えてきた経験をもとに、デザインの基本から理論、学び方などを解説した本です。おかげさまで評判もよく、重版もかかりました。
(酒井)稲葉さんは芸術文化学科の出身ですが、卒業後は一般企業に就職されていますね。
(稲葉)そうですね。2008年にムサビを卒業する前から、将来は独立して何かやろうという気持ちを持っていて、同級生などにも「いずれ起業したい」と話していました。ただ、まずは社会の仕組みを知っておきたいと考えて、いったん就職することにしたんです。商慣習やコミュニケーションの仕方などを知らないまま起業するよりも、ある程度は経験を積んでおいたほうがいいと思いました。
質問1 起業するときに不安に感じたことはありますか?
(酒井)ここからは、7つの質問を通してさらに詳しくお話を聞いていきたいと思います。まずは「起業するときに不安に感じたことはありますか」という質問です。卒業後に社会経験を積むために就職したとのことですが、それも「社会のことをよく知らない」という不安要素を取り除くためといえそうですね。ほかにも、起業前に不安だったことはありますか?
(稲葉)不安だらけでしたね。会社を立ち上げて役所に登記書類を出したときは、なんだか背中が重たくなったような気分になりました。そのとき描いていたビジョンは学生時代から温めてきたことと関連していましたし、社会にとって有意義なものだと思っていました。きっと形になるという自信もあった。それでも、やっぱり不安なんですよね。「できる」と確信している自分と「できないかも」と不安になっている自分が、半分ずついるような状態でした。
(酒井)不安な気持ちがあるなかで、それでも起業に踏み切ることができたのはなぜだったのでしょうか。
(稲葉)「これしかない」と思っていたのはたしかです。また、その一方で「どうとでもなる」というポジティブな割り切りもありましたね。まだ若いのだから、起業に失敗したとしても再就職すればいい。ダメになったら別の選択肢を考えよう。そんな発想で事業をスタートさせました。
(酒井)たしかに、起業するときには楽観性も大事なのかもしれませんね。石橋を渡らずに叩きすぎて壊してしまうような人も多いですが、「ダメでもなんとかなる」という感覚は大切にしたいです。ところで、稲葉さんの生い立ちを見ると「祖父母も両親も会社経営者」とのことですが、稲葉さんの起業家精神への影響は大きいのではないでしょうか。
(稲葉)ほかの人生を経験したことがないので自分ではわかりませんが、影響はあるのかもしれません。経営する人を間近に見ていたので、経営者の考え方やライフスタイルは自然に感じられました。自分が経営者になるのも普通のことだと思えていたのは、強みとしてあったんだと思います。
(酒井)起業にあたっていろんな不安を抱えていたとのことですが、周りの人たちにはどんな相談をしましたか?
(稲葉)いろいろな人に、多角的に相談しました。まずは大学の同級生ですね。それから、教授にも連絡を取って話を聞いていただきました。
アイデアを人に話してみると、相手から反応が返ってきます。「おもしろそうだね」と言われることもあれば、「それは無理じゃないか」「こういう課題がありそうだね」と言ってもらえることもある。反応をみるだけで、実際にチャレンジしたときと同じくらいのフィードバックが得られると思っています。自分の考えを軸に据えつつ、いろいろな人の意見を参考にすることで事業計画がより具体的になっていき、次第に不安も解消されていきました。
(酒井)人に相談するのは挑戦の第一歩ですね。話すにはちょっとした勇気も必要ですが、その勇気を持つことがまずは必要なのだと思います。相談する際には事業計画書をつくっていったのですか?
(稲葉)友達には口頭でしゃべっただけでしたが、大学の先生のような距離の少し遠い方やじっくり聞いていただきたいときは、A4用紙1枚にまとめた企画書を準備しました。概要やタイトル、価格やターゲットなどの想定を書いたものです。不思議なもので、企画書があるだけでなにがやりたいのかがリアルに伝わります。具体的な意見をもらいやすくなるので、目に見える形にするのは大切だと思います。
質問2 創業の手続き、事業計画、資金調達、採用、ビジョン策定、どの作業が大変でしたか?
(酒井)大学を卒業して就職されたのが2008年で、創業したのが2014年ですね。具体的に起業を考え始めたのはいつでしたか?
(稲葉)創業の3年くらい前なので、2011年ごろだったかと思います。
(酒井)起業にはさまざまな準備が必要です。潤沢な貯蓄がなければ資金を調達しないといけないし、ひとりでは難しい仕事なら人を採用することもあるでしょう。事業計画を立てたり、会社のビジョンを策定したり、事務手続きをしたりといったいろいろな作業のなかで、どれが大変でしたか?
(稲葉)どれも大変だったと思います。とはいえ、先ほども言ったように気軽なスタンスで始めようと思っていたので、最初から完璧な会社をつくろうとはしませんでした。事業計画書は、Excelで簡単な収支計画表をつくった程度です。人材に関しては、大学時代の知り合いに声をかけてスタートできました。資金調達については、親に借金したような形です。一番大変だったのは、このアイデアで事業をやっていくと計画して決定するところだったと思います。
(酒井)事業計画の部分は起業のコアになりますね。事業のアイデアはどのように生まれたんでしょうか。
(稲葉)最初に考えていた事業は、アートスクールではなく「旅行」だったんです。私がやりたいと考えていることは、これはムサビの芸術文化学科のコンセプトそのままなんですが、「芸術文化と社会をつなぐ」こと。さらに私の場合は「初心者に届けたい」という思いがありました。子ども向けの芸術教育に取り組んでいる人はたくさんいるので、自分は社会人を対象にしようとも考えました。
そのための手段として考えたのが「旅行」です。美術館やアートスポットに行って、初心者に寄り添った解説をする“アート旅行”を計画していました。それを1枚の企画書にまとめて、美術館に勤めている先輩に相談したりFacebookに投稿したりして反応をもらいました。
(酒井)なるほど。旅行と教育ということで手段は違うけれど、稲葉さんが伝えたいことや想定していた顧客は変わっていないんですね。
(稲葉)そうなんです。実は、会社のウェブサイトに掲げているビジョンはときどき変えています。定期的にというわけではなく、そのときやっているビジネスが伝わりやすいような言葉に都度変更しているんです。自分たちの核には「芸術文化と社会を橋渡しする」とか「初学者が芸術にアクセスできる状況をつくっていく」といった思いがあります。ただ、この言い方や概念をそのまま発信してもわかりにくいですよね。「自分たちにとってのビジョン」はしっかり持ったうえで、「世の中に出していくメッセージとしてのビジョン」はそのときどきで伝わりやすいものに翻訳している感覚です。
(酒井)企業のビジョンって変えてはいけないものというイメージが強いんですが、必ずしもそうではありません。稲葉さんのなかでは変わってないけれど、表に出す言葉としては、時代によりフィットするようチューニングしているんですね。
(稲葉)そもそもデザインって、そういうものですよね。プロダクトが持っているコアなコンセプト自体と、そのコンセプトを伝えるメッセージは、ちょっと違っていたりする。会社の経営も同じです。自分たちのコアな感覚と、どう発信していくのかは別のことだと思います。「旅行から教育に変えた」というと大きな路線変更に思えるかもしれませんが、自分たちの本質である「芸術文化と社会の橋渡し」という軸からはなにも変わっていません。
思いついたアイデアって、固執してしまいやすいものなんです。いったん「旅をやる」と決めてしまったら、いつのまにか「自分は旅を事業にしたいんだ」と誤認してしまう。でも、そうじゃない。自分たちの本質的な部分が大切で、それを実現するための手段はなんでもかまわないと思います。
(酒井)すばらしいですね。美大での作品制作に置き換えてみると、形になってきたものを一度すべて壊してつくり直すと考えたら、相当な勇気がいると思います。稲葉さんは、どうしてアイデアに固執することなく本来のビジョンに立ち返ることができたんでしょうか?
(稲葉)「存続できる会社でなければ意味がない」という考えが根底にあるからかもしれません。誤解を恐れず言えば、会社って、儲けを出すことがすごく大事なんです。儲からないと続けられないし、関わってくれる人たちに謝礼や給料を支払えない。だから、儲けるのがなによりも大事だと思っています。儲からないなら潔くあきらめる。
私がラッキーだったのは、柔軟で冷静な意見を言ってくれるメンバーが近くにいたこと。自分はもともと、思いついたアイデアに向かって突進してしまうタイプなんです。私が目先のことに集中しすぎているときに、俯瞰的に見て視点を切り替えてくれるメンバーがいたことで、とても救われたなと思います。
自身の軸にある思いを大切にしながら会社を経営してきた稲葉さん。後半では、不安の解消方法やビジネスにおける価値判断、長期計画へのビジョンについてお聞きします。
<講師プロフィール>
稲葉裕美/デザイン教育家、OFFICE HALO代表取締役、WEデザインスクール・WEアートスクール主宰
2014年に「クリエイティブ教育をイノベーションする」というビジョンのもと、OFFICE HALOを設立。2016年に日本初のデザイン経営の学校「WEデザインスクール」を開校。企業や行政、経営大学院などで多数プログラムを開催し、これまで1万人を超える受講者を輩出。2024年にアート思考の学校「WEアートスクール」を開校。著書に『美大式ビジネスパーソンのデザイン入門』(2024年5月発売)がある。